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27件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2019-11-15 第200回国会 衆議院 安全保障委員会 第6号

この偶発的な武力衝突を招きかねない一触即発の危機が今続いている中で、六月二十日にはイスラム革命防衛隊が、同国南部ホルムズガン州のオマーン湾近くのイランの領空内で、米海軍無人偵察機グローバルホークRQ4Aを迎撃しました。これに対してトランプ大統領は、米軍による報復攻撃を承認しましたが、直前に承認を撤回して、幸い、犠牲者を出す事態には至りませんでした。  

篠原豪

2019-06-18 第198回国会 衆議院 安全保障委員会 第10号

日本は、言うまでもなく、アメリカイラン関係が悪化した一九七九年のイスラム革命後もイラン関係を保ち、八〇年代のイランイラク戦争時は中立外交を維持しました。アメリカトランプ大統領安倍総理の親密な関係世界でも群を抜いているわけでございます。五月の来日時に、トランプ大統領安倍総理イラン訪問を歓迎したと言われております。双方から信頼されるのは日本の強みである、そのように考えております。  

佐藤茂樹

2019-06-18 第198回国会 衆議院 安全保障委員会 第10号

今申し上げた核合意を離脱し、そして、イスラム革命防衛隊に対する外国テロ組織指定をし、そして経済制裁をしています。なぜトランプ政権はここまでイランに対して厳しい立場をとっているのか。まさに、前アメリカ政権がつくった合意をみずから米国政権が離脱しているわけです。  なぜここまでイランに対して現政権は厳しい立場をとっているのか。河野大臣の御見解を教えてください。

青柳陽一郎

2015-04-06 第189回国会 参議院 政府開発援助等に関する特別委員会 第3号

だからこそ緊急で支援をしたということだと思うんですが、しかし当時の内務省シーア派の政党であるイラクイスラム革命最高評議会が牛耳っておりまして、非常に危険な状態にあったと。これは、NGO外務省ODA政策協議会においてもNGOから指摘をされております。この内務省は、ODA警察車両を送った内務省は、当時、誘拐や拷問、虐殺が中心に行われていたということも国連の人権報告報告をされていると。

辰巳孝太郎

2007-10-31 第168回国会 衆議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 第6号

高村国務大臣 米国が今月二十五日に発表した対イラン制裁でありますが、イスラム革命防衛隊や複数のイラン国営銀行等を対象に、その米国内にある資産及び権利等の凍結を行うものであります。イラン革命防衛隊でありますが、これは正規軍と並行して独自の陸軍、海軍、空軍を有する、一九七九年のイランイスラム革命後に創設されたイラン軍事組織である、こういうふうに承知をしております。  それから、何だったですか。

高村正彦

2007-02-21 第166回国会 衆議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 第2号

そして、八〇年にイスラム革命があったのは御案内のとおりでありますが、それから何度かイランを訪問いたしまして、昨年末にも、衆議院から派遣をしていただいて、イランに滞在をさせていただきました。驚いたのは、同じように秘密警察官がうろうろいるということでありました。イスラムの国になったからみんなが解放されたのかというと、そうではなくて、逆に厳しくなったんだという実感を持ちました。  

松浪健四郎

2005-10-28 第163回国会 衆議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 第6号

それではこの人たちが本当に兄弟のようになるかというと、同じシーア派ではありますけれども、民族的には、イラクアラブ人イランペルシャ人という大きな違いがあるほか、政治宗教につきましても、イランでは、七九年のイスラム革命以来、宗教指導者政治をコントロールするというやり方が続いておりますが、イラクにおけるシーア派の代表的な指導者と言われているシスターニという宗教指導者は、我々は政治には手を出さないんだというようなことを

吉川元偉

2004-03-11 第159回国会 衆議院 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会 第8号

シーア派イラクイスラム革命最高評議会、この代表は統治評議会にも出ています。でも、その派閥の民兵組織が、五日に、サマワから東北東二百キロのアマラでイギリス軍と交戦して二名死亡するというようなことも起きています。  つまり、私が言いたいのは、明らかに、宗教的な不安定要素治安情勢の悪化につながってきているという可能性が高いと僕は見ているわけであります。  その証拠はたくさんあります。

岡島一正

2004-02-18 第159回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第4号

これは一九七九年のイランイスラム革命くらいから非常に明らかになってきておりますし、この二ページ目のところに現在も使われているイラクの国旗が図版でございますけれども、イラク共和国、サダム・フセインの下でアメリカに、あるいはサウジアラビアに対する敵意ということで、我々の方がイスラム世界では本尊であるというような考えで、第一次湾岸危機の際に、国歌に、アッラーホ・アクバル、神は偉大なりというものを付けたわけでありまして

片倉邦雄

2004-02-18 第159回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第4号

だけれども、実際の脅威として顕在化するのは一九七九年のイランイスラム革命以降、特にこれが出てきたと思います。そして、冷戦が終わって、アメリカの一方的な行動主義、しかも唯一のスーパーパワーとしての圧倒的な軍事力に基づく、軍事力万能薬とするいわゆるテロ防圧、これに現在相呼応するようなイスラエルの占領政策占領行政が暴力化してきている。

片倉邦雄

2002-05-22 第154回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第8号

何か日本一つの国民的な感情的なものが、いろいろなことの中で右へ向けばみんな右向く、左へ向けば全員左向くというような一つのあれがあるんじゃないのかと思いまして、そんな中で、この中東イスラム問題を振り返ってみたときに、一番最初に中東戦争、そして中東戦争からそれに関連して石油危機がありまして、また湾岸戦争があり、その前にイランイスラム革命があり、湾岸戦争があり、そして九・一一のこの事件、そのたんびたんび

吉田博美

2002-04-24 第154回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第7号

八〇年代には、イランイスラム革命というのもありました。それから、アフガニスタンに対するソ連侵攻というものがこういう動きを助けたということもあります。しかしながら、それもうまくいっていない。そういう中でイスラム社会は、今、アメリカないしはグローバライゼーションというものに真っ向から立ち向かっていかないといけないという状況になっているわけですね。  

奥田紀宏

2002-04-03 第154回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第5号

そういうところで日本高度成長期を迎えたわけでありまして、専ら中東石油というものに依存するところでは、実は日本は深くアラブ・ナショナリズムの運動等パレスチナ問題、あるいはやがてやってくるイランイスラム革命こういうものにかかわらざるを得なかったわけであります。  二十世紀の末になりますと湾岸戦争ということになります。

板垣雄三

2002-02-13 第154回国会 参議院 国際問題に関する調査会 第2号

これは、先ほどの説明にもありましたように、イランという最も親米的な、それまでアメリカの代理人としてこの地域を守ってきた親米政権が一転して反米政権になると、その反米の根拠が正にイスラム主義であるというイスラム革命の輸出という脅威イラン革命は生み出すことになったわけです。  そこで、アメリカ中東政策が複雑化せざるを得なくなる。

酒井啓子

2000-11-09 第150回国会 衆議院 青少年問題に関する特別委員会 第2号

思い起こしますと、あのパーレビ国王が絶大な権力を誇っていたイランにあって、なぜイスラム革命が起こったのかということをほうふつとさせられたわけでありますけれども、革命の原点は、イランという国が余りにもアメリカナイズされて自由な国になり、そして非イスラム的な社会ができつつあったところに革命が起こった、私はこのように理解をするものであります。町を歩く女性は、きれいにお化粧をし、そして肌を露出させる。

松浪健四郎

2000-09-28 第150回国会 衆議院 憲法調査会 第1号

そこで、八〇年にイランイスラム革命がありました。そして、イランイラク戦争が長く続いたわけです。この戦争は大変な犠牲者を出しましたけれども、NATO軍あるいはアメリカが手を出すということはなかったわけであります。この両国は産油大国でありながら、なぜアメリカやヨーロッパは手を出さなかったのか。そして次に、申すまでもなく、イラクがクウェートを侵略するあの湾岸戦争が起こりました。

松浪健四郎

1997-03-14 第140回国会 参議院 予算委員会 第10号

政府委員川島裕君) 七九年の十一月にイスラム革命支持派の学生が在イラン米国大使館を襲撃し占拠したわけでございます。そして米国外交官六十数名を拘束いたしました。この事件特異点は、イラン政府自身右占拠を容認いたしまして、これは非常に長引きまして、結局アルジェリア政府の仲介によって人質が解放されたのは一九八一年一月ということで、四百四十四日間拘束が続いたと、こういう事件でございます。

川島裕

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